他人の幸せを喜べないときもある

日常

本日の昼頃、選挙の遊説中に安倍元総理が銃撃されるという大変ショッキングな事件が起こりました。
日本でもこのようなことが起こってしまうのですね…。
どんな思いがあったにせよ、【道】を外した行いは許されません。
ご冥福をお祈りいたします。

さて、少し前のTwitterトレンドに「結婚式の暴力性」というワードがありました。

他人の幸せを目の当たりにするとつらい、しんどい…。というもの。
自分は結婚したくてもできない、いや、相手すらいない…。
どうして他の人は幸せなのに自分はこうなんだ…。
そもそも結婚は諦めているが、周囲の幸せを見聞きするとやっぱり苦しくなる…。
というようなお気持ちから出てきたワードなのでしょうか。
他人の幸せを素直に喜べないときもありますよね。

Twitter上には様々な視点からの意見がありましたが、実は私も10数年以上も前に似たようなことを感じた経験がありまして、そのお気持ちは理解できます。

友人の結婚式にお呼ばれしたときのこと。
厳かで感動的な式が終わった後、披露宴で新郎の隣りにいる幸せそうな友人を見ていて突然涙が止まらなくなった私。
同じ円卓に座っていた友人達は、きっと新婦の幸せそうな姿を見て感動しているのだと思っていたでしょうがそうではありません。

『どうして私はこんなに不幸せなんだろう…。なんで私には辛いことばっかりなんだろう…。』
という思いで、悲しくて涙が出てきました。
もちろん友人には幸せになってほしいし、おめでとう!の気持ちで実際出席していたのに、なぜかその一瞬で気持ちがどん底に堕ちてしまったのです。

と言うのも、その数年前に私は離婚し、生活も子育てもいっぱいいっぱいでメンタルが追い詰められていた時期でした。心に余裕がなくて子供にも辛く当たってしまったり…。
自分の状況と友人の幸せそうなキラキラした姿が全くの正反対に感じられ、惨めで辛かったのです。
今の私なら「暴力性」とは思いませんが、当時の私ならそれに近いものは感じていたのかもしれません。やはり生きていれば無意識に他人と比較して落ち込んでしまうことはありますよね。

比較するのは自分自身

その後も度々友人の結婚式には出席していますが、悲しくて泣いたのはその1回だけです。
あの時が自分史上で最低最悪な精神状態でした。

そんな状態だと自分と他人を比べても、他のお子さんと我が子を比べても落ち込む。
様々なことが上手くいかずに悲観し、自信を無くしていたのですね。
メンタルが豆腐のように弱弱だった時期ですから、他の人の幸せとか順調にいってる様子とか何もかもが眩しく見えて、逆に自分はダメダメだ…、っという気持ちが自分の中でどんどん大きくなってしまったのです

今思えば、自分で自分を追い詰めていただけなんですけれども。
誰かと比べて落ち込むのは自然なことですが、それによって長いこと心身が病んでしまうと日々の生活にも深刻な影響をもたらします。

きっと時間が解決してくれるよ!そこまで思い詰めると逆効果だよ!とか、そんなことを当時の私に言ってやることができたとしても、きっと聞く耳を持たずに一人で落ち込んでいたでしょう。苦笑
そういった苦い経験を経て、『あんなに落ち込む必要は無かった!』と今は振り返られるわけですが。
それが人生修業ですね。生きるということ自体がいつも修業のようです。

でも、考えてみたら原点やらスタートラインが全く違う他人と自分を比較しても、それはあくまで参考程度にしかならないということに気がつきます。

確かに同じ年齢・同姓の友人、同じ年代に生まれた子供たちであっても、共通点はほぼそれだけです。
親も、育ちも、様々な環境や境遇も、何もかもが違っているから同じ人間ではない。
だから参考にはしたとしても比較してボロボロになるほど落ち込む必要なんて無いのです!
と言いつつ、私も散々落ち込んだ人間なので偉そうなことは言えませんが…。

本質的に比較するなら、どこまでいっても基準は自分自身のみ。
自分の過去と現在とを比較してどうなっているか?それが重要なのであって、本来、そこに他人の幸福は関係しないのです

自分が少しでも前進していればそれは幸せな状態だし、これからも自分のやるべきことをやるのみ。
もし後退しているなら正しくその原因を見極め、(気学的な行動も含めて)それに見合った適切な行動を取る。人生はそんなことの繰り返しです。

自分のペースで、自分なりに幸せであればそれで良い。人は人。私は私。
昔の自分より今の自分のほうが幸せだ!と思えるように、日々やるべきことをやるだけです。
そうしたら、他人の幸せを目の当たりにしても、きっと深く落ち込むこともなくなりますよ!

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